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  連載コラム 2007.新年 最新号

札幌電気工事業協同組合 理事長 尾池 一仁
  「紫煙」をお読み頂いています皆様に、改めまして2007年の新春をご健勝でお迎えになられましたこと謹んでお慶び申し上げます。

 電気工事業界の経営環境は、年頭所感にてご案内いたしましたので、紫煙では「この国」ではなく「私たちの国」または「わが国」の教育論的観点から過去・現在・未来について普段思っていることを記載させて頂きます。

 司馬遼太郎が日本という国を論じるに当たって「この国」と表現をしています。思想家あるいは政治家でない歴史小説の第一人者である文人としては、国家の歴史を客観的に捕えるのは至極当然であると思います。ところが、最近では政治家あるいは政治評論家が自国を「この国」と表現する活字または言動が横行しています。何故「わが国」と主観的に表現できないのでしょうかと疑問に思います。

 21弾の「紫煙」で紹介しました日本国憲法の前文を改めて記載して検証させて頂きます。日本国憲法では国家の主権が国民にあることと、全ての国民は法律を遵守することを条件に、基本的人権の享受を受ける権利を有することを宣言しています。言い換えれば国民は主観的立場で国家を形成しなさいと宣言しているのにも関わらず、他人事の如く「この国」と表現する政治家が増えたことは嘆かわしい限りであります。更に最悪なのは、国家の舵取り役の総理大臣が「美しい国づくり」などと、おとぎ話の世界の大臣を演じているようでは、国際社会から「この国は」具体的大計も無く国家意識の希薄な抽象国家であると思われても仕方のないことであります。

 主観的立場で国家の一員になることを放棄してしまうような社会になってしまったのは、国家の責任を履行する役人並びに教育者の資質の低下と教育制度のあり方に大きな問題があったように思います。

 昭和22年3月31日に制定された、教育基本法の条文をこの機会に熟読させて頂きました。前文は「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力に待つべきである。われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にして、しかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。」と記されています。約60年前に制定された旧教育基本法の前文をお読み頂いた皆さんは、言い回しで今の時代には合わない部分はあるにせよ、なんら不都合を来たすものでは無いことがお解かり頂けたと思います。まさに国家は普遍的に真理と平和を希求する人間を教育する義務を担っていることは、今も60年前も変わらないし未来においても不変の原理であります。

 昭和22年に制定した教育基本法を改定するべく2006年4月28日に政府が新しい教育基本法案を国会に提出して12月の国会で承認されました。

 真理と平和を希求する人間の教育を期した法律であるのにも関わらず「なぜ教育基本法を改定しなければならないのか」答えを複雑にする必要は有りません。単純に道徳心が無く利己的で法律を守らない者が蔓延し、挙句の果てには強盗は基より子殺し親殺しが毎日報道される社会になってしまったからです。

 私は法律を改定することには賛成ですが、それだけではこの荒んだ社会が改善されるとは思いません。この荒んだ社会を変えるには専門的な理屈は不要に思います。むしろ私のような教育とは無関係な人間の考えの中に、正しい答えがあるのではないのかと思い紹介させていただきます。

 まずは国家の権限により、日教組を頂点とした教員組合の解体を要求します。教員の身分は新教育基本法の第9条で「自己の崇高な使命を深く自覚し、絶えず研究と修養に励み、その職責の遂行に努めなければならない。更に、その使命と職責の重要性にかんがみ、その身分は尊重され、待遇の適正が期せられるとともに、養成と研修の充実が図られなければならない」と記されています。そもそも組合とは資本家に対峙する労働者の権利闘争手段として生まれたもの、またあるいは札電協のように、同業者が集まり相互扶助の基で、社会的地位の向上のために生まれたものであります。日本国憲法で国家公務員は国民の公僕であれとまで厳しく制限されている一方で、教員に限っては、その身分は尊重され、待遇の適正が約束されています。この事から、身分とそれに見合った報酬を保障している教員に、組合は不要であります。そもそも、思想的中立であるべき教育者が「右派だ左派だ」とイデオロギー論争をすること自体許されるべきものでは有りません。

 次に教員は5年に一度教員資格の特別研修を受け、その資質の厳正なる評価制度をスタートするべきであります。電気工事士資格を含む一般人の多くの国家資格には、その適性を問う更新制度があります。教員は基より公務員・医者・弁護士・その他の特権資格においても更新制度が実現できれば、迅速かつ的確なる社会倫理の改善がなされると思います。

 次に私の知識では、教員の人事権は教育委員会にあると理解しています。現場を知らない組織に現場の人事権があることなどは、一般社会では通用しないことであります。これらのことを前提に、校長並びに教頭に教員査定権と人事権を与え、学校運営の責任を持たせることを提言します。学校でのいじめの問題が最近クローズアップされ、その責任を「校長だ、いや教育委員会だ」と責任のなすりあいをしている現状解決には、不適格な教員の人事権を校長に与え、教育委員会を改め教育監視委員会として、校長並びに教頭の学校運営を監視させるシステムが確立できれば、何を業務としているのかわからない教育委員会の余剰人員の削減にもつながります。

 そもそも、私の年代での学校教育では、勉学に限らず、時には道徳教育として愛の拳固も許されていました。また教育者も先生と呼ばれるに相応しい崇高な理念の持ち主でありました。本来の学校教育を受けて人間形成の実践を実行してきた私たちの年代も、新教育基本法の制定を契機に、様々な意見を交わすことも重要であると思います。組合員の皆様も組合にお越しの際は、是非役員室にお立ち寄りください。お待ちしています。

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